|
最新の記事
カテゴリ
【こちらから】さくいん
ごあいさつとか、私とか あ行の著者 石田衣良 池澤夏樹 内田樹 ポール・オースター か行の著者 川上弘美 さ行の著者 た行の著者 は行の著者 な行の著者 ま行の著者 村上春樹 や行の著者 山田詠美 吉田修一 ら、わ行の著者 読書企画 日々のこと 最新のコメント
最新のトラックバック
ネームカード
以前の記事
タグ
ファン
|
なんでも自分でつくっちゃお!
昨年から、絵の展覧会を開いているが、 展覧会ってのは絵だけあればよいというわけにはいかない。ネームプレートとか、プロフィールとか、記名カードとか。人様に見ていただくためのさまざまな「つくりもの」が必要になる。とくに、DMハガキは私にとって鬼門となる存在だった。 「この絵にこんな感じで文字入れてくださいね」そう印刷屋さんに渡してお願いするわけだが、私、曲がりなりにも編集の末端で仕事をしているわけです。なのに、レイアウトが思い通りにならない、色も出ない、あげくうっかりミスした文字がそのまま印刷されてしまうという大失態。さすがにへこたれそうになった。 が、たかがDM、されどDM。 やっぱり自分の世界を表現するのだもの、仕上がりには細かいところまでこだわりたい、そんな思いをかかえつつ画材を買いに立ち寄った世界堂で、私のハートを撃ち抜く本を発見! 帯には「お金がない!こだわりたい!頼めるところがない!そんなときは、自分で印刷・加工をやってしまおう!!」とある。 ページをめくると、オリジナルの印刷物の作り方が盛り沢山。「印刷」、「紙の加工」、「綴じる・製本する」など、さまざまな手法や道具を、惜しげもなく見せてくれる。作例のレベルがとても高い。センスよく、目的にもかなう素晴らしいデザインの数々は、手作りの好きな人なら眺めているだけでわくわくするはず。 やがて読み進むうちに、そのわくわく感は神妙な気持ちに変わっていった。そうか。手法や金額の問題ではないのだ。素敵なものを作り出すということには、根本に新しいアイディアとそれを形にする技術が不可欠なんだ。自分が満足できないものしか作れないとすれば(それがたとえ外注であっても)、自分にそれだけのクリエイティビティがない、ということの証明にほかならない。 作るって面白いだけではなく、厳しい。 でも厳しいから、面白いのだ。そしてますます深みにはまり、バタバタと手足を動かし続けることになるのである。
たちゆかくなる時代を目の前にして。
実に久しぶりの更新。 震災のせい、というわけではなく 絵のサイトを立ち上げたり個展を開いたりしていたために 単純にブログにかける時間がなくなっていたというだけなんだけど、 やはり思いのままに書ける場は大事だなとふと思い、ふと戻ってみました。 さて、そんな中から久しぶりのレビュー本に選んだのは 哲学者・内山節『怯えの時代』。 これほどまでに人間が無力な時代はない。 問題の所在はわかっているのに、「現代」を支えるシステムが 複雑かつ巨大すぎて、解決手段を持てなくなってしまった。 いつから、どのようにして、私たちは「明るい未来」をなくしてしまったのか (裏表紙より抜粋) この本は09年2月初版。2年半前に書かれたものなのに、 今の私たちを予言しました?と思わず本に向かって言いたくなった。 量の拡大がもたらされず、下降線をたどりはじめた時代の生き方を 知らない私たちの「怯え」の原因がよく見える。 私たちのこの鬱々とした気持ちの原因を 内山さんの説にあてはめてみると、こうだ。 まずは「先の見えない不安」「何が不安かわからない不安」。 たとえば自身の被災の度合いは刻々と変わり、いつまでも全貌が見えない、 原発の影響はそれ以上で、健康被害がいかほどかもわからなければ 福島どうなるの?何年後に住めるようになるの?もわからない。 しかも、それだけには終わらないのがここ大事なところで、 仮に不安の正体がはっきりわかったとして、 政府や東電が正常に働かない原因がつきとめられても このシステムの中にいる自分たちは解決手段をとることができない、 そんな無力感とセットになってしまっている。 ここにきて、私たちは「不安」を超えて「怯え」はじめる。 これは震災に限った話ではなく、根源的な構造だと。 今の日本が抱えている問題、年金、介護、教育、食糧といった問題のすべては この構造をなぞっているのだと、内山さんはいう。なるほど。 言われてみればクリアな話ではある。 そして、私たちが知りたいのはそこから先なんだよね。 内山さんの提唱する解決策としては、 貨幣経済から脱して、温かい血の通った経済や コミュニティを新たに作り直すというもので、 これは彼の『「里」という思想』などにも詳しく書かれている。 明確なビジョンではあるのだが、やや現実感に薄く 宙に浮いたような話に落ちて行ってしまう。 いやもちろん、とても賛同できる理想的な内容なのですよ。 でも、この哲学に、もう一つリアルな手触りを持った策がかみ合うと もっと広く深く社会が変わっていくのではないかと感じる。 いずれにせよそれは哲学の範囲外。私たちの仕事だ。 でも、思ったよりもずっと高いハードルにちょっとしたため息をつく。 もっと本腰を入れてやらなくちゃならないよなー。 と自分に喝を入れるかおるんであった。
アートが龍馬するとき。
今年のNHKの大河ドラマの『龍馬伝』。 福山雅治の色気にひきこまれてつい観ています。この本を読みながらふと思い出したのは、坂本龍馬ってキュレーターだったんじゃないかな、って思ったから。 本書はキュレーターという職業について その仕事内容、必要な能力や資質、時代の変化により求められることなどを含めて説明しながら、現代アートの本質にせまろうという意識で編集されている。 美術館や博物館で従来的な仕事を行う「学芸員」に対し、近年、より多様化した現代アートを扱う職業として「キュレーター」という言葉を定義し直しているのも、より両者の違いを際立たせたいという意図によるもの。勤務とフリーランスという働くスタイルで分けたのは、それが両者の仕事の内容に直結しているからだ。 そもそも、現代アートは「未来を含む今」を描きだすもの。しかし、未来はこれから起こることだから今を生きている誰にもわからない。さまざまな人がそれぞれの立場で未来を占い、口々に未来を主張するのも当たり前といえば当たり前。 どんなにすぐれたアーティストも、その中にあっては一つの点にすぎない。でも、その中で時代を読んで、点在するすぐれたアーティストを線に、やがて面に変えて進むべき未来を作り上げていく…それがキュレーターの仕事だとするなら、やっぱり坂本龍馬はキュレーターだったと言っていいのではないかと思う。 さて、現代アートは確かに混沌としているように見えるけれど実際にはまったくとらえどころがないわけでもない。ある程度、美術史や時代的な文脈、マーケットの成り立ちの中で整理されている。 現代アートの問題は閉鎖性ではないかと思う。一般の人に対しても、あるいは海外に対しても。社会にどのように近づいていくか、どう開かれていくかが求められているんじゃないかな。 攘夷なんか、もう古い!開かれた、新しい世界へ向かってアートも踏み出さなくてはいかんぜよ!龍馬のような人懐こさとニュートラルな心を持って、明るくそう投げかけるキュレーター、現れないかな。
アートを愛して、愛されて。
絵を買った。 版画や簡単なドローイングを買ったことはあったが、ある程度の大きさの油絵を買うのは初めてだった。それは緑鮮やかな木々の絵でほとんどひと目ぼれに近い感じ。手に入れた夜は部屋の中イーゼルに立てて置いた絵がこちらを見ているようで、ドキドキしてよく眠れない。明け方に目が覚めると薄明かりの中にぞっとするような美しいグリーンが浮かんでいて、心がふるえた。 毎日、いくらでもながめて飽きなかったし、ながめるたびに勇気がもらえた。 そんなことがあったので、著者の宮津さんが、彼の最初のコレクションとなる草間彌生さんの作品と出合った時の話にひどく共感してしまった。300点もの現代アートをコレクションし、アーティストたちと一緒に家まで作ってしまった宮津さんと私の単なるお買い物体験ではまったく意味が違うだろうけれど、あの心のふるえはきっと同じだろうと思ったからだ。 サラリーマンでありながら現代アートにほれ込み、作家やギャラリーとの交流を深めていった体験談にも、また作品の買い方、保管の説明にもアートへの愛があふれている。だからこそ作品がそんな彼を慕って、集まってくる。 ひょっとしてこの本を手に取る人の中には アートを投機目的にしようと思う人もいるかもしれない。アーティストも資金が必要だからそれも大切な力になるだろうが、やはりアートを育むのは何よりもそれを鑑賞する人のアートへの愛情と熱意だ。 ところで私は美しいものは多少見分けられる自信があるのだけど、新しいものを見分ける力に欠けているようで、現代アートというものがよく理解できない。今、あちこちのギャラリーをめぐって勉強中!詳しい人いたら、ご教授ください。
家の中に娘の隠した手紙をお母さんがつぎつぎと探しまわる楽しい仕掛けと
やさしくきめ細やかなタッチの絵が心をあたためてくれる絵本 『きょうはなんのひ?』 このすべてのページから、想定される間取りを再現してみました。 ![]() twitter上で開かれている大人絵本会は、 「絵本を肴に飲むweb居酒屋」がコンセプトのゆるい読書会。 絵本好きな人々が集まって楽しく熱く語らっています。 その第8回に選ばれたのがこの『きょうはなんのひ?』でした。 絵本会のスタートでは、なつかしい時代背景に話題が集中。 お母さんのエプロンや靴下、お部屋の家具やカバー類、階段の手すり… まみこ自身がたぶん40代後半であろうという指摘がありました。 昭和の時代のリアリティが、絵本の中にあふれています。 作品に命を吹き込む最大のポイントは、この、徹底したディティールへのこだわり。 絵本会の前にぼんやりとながめているうちにふと この家はきっちり間取りを決めてから描いているんだろうな、と 机の上のメモに落書きをはじめたのが、間取り図再現のきっかけに。 家の中のあらゆる方向から構図がとられているため、 ここはどういうふうにつながっているのかな?と思いつつページをめくっていくと ちゃーんと答えがみつかるのに夢中になって、 時間のたつのも忘れてついつい完成までやってしまいました。 ゆったりと空間がある間取りにも時代が感じられます。 つまり、子供にとって、手紙を隠す場所がたくさんあるということです。 ちょっと話それますが、絵の構図にふれると、 基本の目線の位置がお母さんのものより若干低い位置に。 (中には俯瞰的な構図もあるけれど) これは、この家の中におけるまみこの視点。 だからこそ最初と最後しか出てこないまみこが、 絵本の主人公であると自然に感じられるのではないかと思います。 作者の瀬田貞二さんは『指輪物語』の翻訳をされた方でもあります。 がっちりと構築された世界観から繰り出される物語の豊かさ、迫力というものを こうやって時間をかけて、手間ひまをかけて、私たちに伝えてくれています。 今回の大人絵本会の中で私がとても心に残ったつぶやきは 今の時代こうもゆったり時間が流れて、子供が楽しい企みをできる 「すき間」のある子育てとか家庭ってあるのかなぁ、とふと思う。 家電も便利になって時間がある分、子供に親の目が行き届きすぎてないかとか。 というものでしたが、作品を作る側にとっても同じように、 ゆったりと時間が流れ、楽しいたくらみをできる時代だったのかもしれません。 携帯で子供と連絡をとりあいレンジでおかずをあたため、 いよいよiPadで読み聞かせをする時代もやってきました。 そんな中でも、心のゆとりというものは、 やはり小さなことを積み重ねながら 人が生みだしていくものなのだな、そう思ったのです。 絵本会の皆様、ありがとうございました。 twitter外からいらした方も、ぜひこちらを覗いてみてください。 第8回大人絵本会まとめ
羊羹を日常的には食べないとしても。
明暗のとらえ方のうちに西洋とはまったく異なる日本人の美への考え方があると説く随筆「陰翳礼讃」。吸い込まれるような影や暗がりにほんのり映える美しさが日本人の元来の好みであり、蒔絵や女性の化粧なども暗さの中でこそ本質がわかるのであると、谷崎は言う。塗り物の菓子器に置かれた羊羹をもって「肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」と語った一節はあまりに有名。昭和8年、著者47歳の作。 …と、息の長い谷崎の文章につられて、いつもより私も息継ぎ長ーくはじめてみました。ほぼ20年以上たって読み返した『陰翳礼讃』でしたがいま絵を描いている自分にとって感じるところの多かった一冊。ただよっているのは昭和初期のレトロな風情ですが、この中にある「日本人が何に美を感じるか」は現代にもしっかり通じています。 電球をパーンと当てた、冴え冴えとした明るさの中に見える形より暗がりにすうっと浮かび上がる淡い形を私たちは好んできた…。その美観はたぶん、いまだにそのままで、だから日本人になじみやすいのは輪郭をぐりぐり描いたような絵よりもぼうっと霞んで空気にとけ込むような絵だろうし、油彩やアクリルの明快でぶ厚い白ではなく日本画に使われる胡粉の吸い込まれるような白さなんじゃないかと、ひそかに私は感じています。 陰翳という話から少しそれますが。個を前面に押し出すことがアートと考えられてるけれど、それは輸入された西洋風の考え方じゃないだろうか。何かの一部だけを見て、心の中で補うことによって美を完成させる、それが日本人的なアートのとらえ方で、アート品は心の中にある美を起ち上げるスイッチのようなものであればよい。「陰翳礼讃」を読んでその考えを深めました。一方、最近のアートなどを観ていると、そうとばかりは言いきれない部分もあるので、価値観が混ざりあった過渡期なのかもしれない。 「陰翳礼讃」のほかにも何編かのエッセイが収録。恋愛観やものぐさ観、旅行観(そんな観があるのか?)を通じて、現代の私たちの価値観にはさほど根がないってことをぼやき散らしてます。アートに限らず文章でも音楽でもはなから日本なんか眼中なくて海外狙ってる人は別として、国内で表現をしようと思う人には必読の本。 あと、谷崎って人たらしだなーと思う。
絵本の周辺と、長新太さんと
「子どもにはかなわない」と、大人が言う。 絵を描く人などは特にそういうことを言う。 あの天才絵本作家の長新太も小学生の絵を見て驚き、 「子どもがにくらしく思えた一日」と日記に綴っている。 しかしもちろん、長さんが子どもに勝てない、 なんていうことはないわけで、 大人の思考を身につけたあとで子どもの目を再び手に入れるのは 本当に厳しく、けわしい道なのだということを 言外に匂わせているのだろう。 この本は絵日記風のエッセイに 講演DVDがついているという構成で、 DVDでは本の内容を長さん自身が朗読、解説をしている。 絵と短い文章で描かれた日記を眺め、読んでいると いつも長新太の絵本を読むときに感じるような ほのぼのとした雰囲気にさせられるけれど、 講演ではかなりリアルな実情も語られていて ほのぼの、というよりは寒々という感もある。 本の中で長さんはときに、 絵本制作や絵本出版の現状を厳しく批判している。 絵のことに無知で理解がない編集者。 (原画を2つ折りにしてしまう人がいたってこれ実話…?) 遊びのノリでやる若い絵本作家から 命がけで仕事をしているようでヘンなどと笑われたり 印税で儲かっていいねなどと言われたり。 本の中で長さんは少しばかり疲れている。 でもそれ以上に伝わってくるのは 絵本ってこうじゃなきゃいけない、 子どもの本ってこう作られるべきだ、 そうした長さんの絵本への愛と、絵本作家としてのプライド。 さまざまな「大人の事情」をくぐりぬけてなお、 長さんの絵はあんなにも子供のような心で輝いている。 闘っていたんだ。 そう思ったら、少し涙が出そうになった。 ひとつだけはっきりしていることがあるとすれば 子供に絵本は作れないってこと。 それを読む読者たちへのまなざしがあってはじめて 絵本は絵本として成立するのだから。 そのことをやっぱり長さんはわかっていたのだ。 * さて、ここから追記事項です。 少し前からツイッターをやっているんですが、 最近、そこに「大人絵本会」というものが発生しました。 1冊の絵本をとりあげて、2時間ばかり語りあうという内容です。 参加してみたら、1度に140字という文字制限がありつつも 絵本好きな方ばかりが集まって、なかなか魅力的な場になっています。 主催者が発言をまとめてくださったので、 絵本に興味のある方はぜひ見てください。 第3回・長新太『キャベツくん』のまとめ キャベツくんについてはここ↑でかなりつぶやいたので、 今回はこの絵日記を紹介してみました。
このところブログの文体がコロコロ変わっています。
ブログをはじめた頃は“ですます&であるミックス文体” で書くのがなんとなく自然だったんだけど… 今日はレビューじゃなく、文体について少し感じていることを。 たとえば、 『カラマーゾフの兄弟』と勝間和代のビジネス本を読むとき、 河合隼雄のエッセイと『容疑者Xの献身』を読むときの 自分の心の中や頭の中を思い浮かべる。 それはラーメンとフレンチ、 あるいは花柄ワンピースと死体のホルマリン漬けほどの隔たりがあって、 どこまで行っても永遠に交わらない。 それぞれの本について、読んだ時の自分の状態を できるだけ出そうと思って書いていると 語尾も統一されたりされなかったり、 改行もされたりされなかったり、 ときには息のながい文章になってしまったり、 ということになるわけです。 そりゃ文体はもちろんのこと、 注文されれば文字数だって揃えられる。 読んでくれている人はそのほうが読みやすいだろう。 ただ、自分としては、それだとリアル読書って感じがしなくなっちゃうし 後から読み返したとき、読んだそのときの自分を思い出せない。 大事なのは文章として完成されることより クロッキーのようにその場の空気をとどめること。 というわけで、 おつきあいいただく方には申し訳ない気もしますが、 書きたいように書いてみることにしています。 レビューの内容も、本の分析よりも気分を優先。 分析すると読むときの楽しみが半減してしまうんだなー。 飲んで飲まれてまた飲むように、読んで、忘れて、ふたたび読む。 だれの役にも立たない、これが私の読書スタイルです。 ひとりごとでした。
トルソ的小説と、ネイルアート的小説と。
ある彫刻展で素晴らしいトルソを観ていて、 そういえば、中島敦の短編小説を読みかけたままだったと思い出した。 4編のうち「山月記」「名人伝」「弟子」はすでに読了。 家に帰って、最後の一編「李陵」を一気に読みあげた。 トルソとは手足がなく、胴体のみで勝負する彫像だ。 だからこそ人間の重量感や存在感がストレートに現れる。 表現する側からいうと、中心軸、ねじれ、熱、 そういった「からだの核心」をまっすぐ表現できなければ これが手足まで備えた生身の人間なのだと感じさせることはできない。 トルソのむずかしさであり、面白さなのではないだろうか。 表現の基本的なスタイルがあるという気がする。 さて、中島敦評に「そぎ落とされた無駄のない文章」 という表現がよく見られる。 風景描写や物語の構成がどれも的確な位置におさまっている。 その一文一文すべてが小説の核にしっかり向かっていて 人の心の動きを逐一説明したりしなくとも 辺境の地形と天候に李陵の孤独を、 無言の時間のうちに司馬遷の葛藤を、 読む側が補って思い浮かべることができる。 こうした中島敦の文章への素直な賞賛は 私ももちろん持っているのだけれど、 テクニック以前の問題として、 こういう表現ってやっぱりありだよなーという面白さも、感じている。 常に新しい表現を求める小説というジャンルにおいて 最近では中島敦みたいに骨太な、ある意味写実的な物語は とても少なくなっているからだ。 小説は放っておけば細部へと向かう性質を 持っているんじゃないかと思う。 胴体を離れて手足の表現へ、さらに指先へと進み、 爪をピンクに染めようかビーズをつけてみようか、 そんなところまで最近は来ている感がある。 指先から体を想像してねという、逆トルソな感じ。 それももちろんひとつの表現だろう。 ただ、中島敦の言葉が描きだす圧倒的なボディの前には 何とも頼りなくうつる。 そういった意味で「山月記」などは ベーシックな物語のスタイル見本として、 いつまでも教科書に残してほしいものだ。 4編のうち、私が一番好きだったのは、 孔子の人格に惚れ込み、生涯忠実・純粋に徹した子路という人物の物語「弟子」。 「山月記」や「李陵」とくらべ、小説としては平凡なのかもしれないけれど、 子路という魅力的でかわいらしい主人公を私も愛してしまったので。 最後のシーンは電車の中で読んでたら涙が出てきて、あせっちゃった…。 、 ●収録作品、こんな内容 「山月記」…そのプライドの高さから官をしりぞき詩人を目ざすが、心の葛藤から獣へと身を落とす主人公の孤独と心の叫びを描く。 「名人伝」…弓の術を極めようと志した主人公が、ついに無射の射という境地に至るまで。 「弟子」…孔子に心酔し師とあおいで仕え、その師からも愛された子路という人物を描きつつ、彼の目を通した孔子の半生とその考え方を描く。 「李陵」…漢の武帝時代、武勇にすぐれ理想に燃えながらも匈奴に捕らえられて敵に降った李陵、宮刑を受け失意の中で史書の執筆に魂を捧げた司馬遷、李陵と同じ状況に置かれながら決して降伏しなかった蘇武。歴史に翻弄された3人の運命を描き分けつつ、武勇とは、忠義とは、表現とは…さまざまなテーマを複雑に組み合わせた作品。
台所の音、どんな音?
幸田文の作品をジャンルごとに分けて編集した 『台所貼』『きもの貼』『しつけ貼』のうち 台所や食に関する一冊です。 エッセイと対談、短編小説『台所のおと』が収録。 料理や食についてのエッセイは数限りなく出回っていますが 家事や台所、家庭料理について書かれたものは、じつはとても少ない。 真剣に家事にいそしんでいる人はきっと、本なんて書かないんだろうね。 幸田文さんが父である幸田露伴から 家事一般を叩き込まれたという話は有名で 母から娘に伝えられるような感じとはまったく違う、 ひとつの芸のようなやりかたで家事を教わっている。 「女のやさしさが、台所の気配にあらわれている」と言われた文さんが、 自分のがさつな台所ぶりが実にまっすぐにわかった、という。 伝える父も、メッセージを受け取る娘も尋常ではない。 その結果できあがったオリジナルな結晶が 文さんの家事のやりかたであり、文章なのでしょう。 何より感じるのは、父露伴の言葉の豊かさ。 家事や子育ても立派な仕事であることには誰も反論しないけれど 明らかに今の時代、その価値は下がっている。 それは仕事を評価する言葉がどんどん貧しくなっているからだ。 仕事の出来不出来をときに叱り、ときにほめる言葉の貧しさが、 失ってはならない仕事の価値を奪っている。 ごく普通の家庭にひとりの有能な人がいて 日々の食事をととのえ、着ること住まうことの面倒を見、子どもをしっかりと見守る。 この凄さにみんなもっと注目してほしいなあ。 よく研がれた包丁のようにスパッと切れ味よいエッセイもですが、 短編小説『台所のおと』の素晴らしさに注目。 病気で寝ついた夫にかわって料理屋を仕切る妻の台所の音を 夫が寝床で聞きながら妻のこころの動きを知るという、なんとも恐ろしい作品。 妻が葉物を洗うときの水栓のひねりかたから 水しぶきのはね方までリアルに描写される場面に いつも自分がガッタンバッタンとたてている台所の音を思い出して いたたまれなくなりました…。
|